おまえどこ中?

最終学歴 オールフィクション

インス田グラ美の憂鬱

なにもする気になれない日は一日中家にいて、家の前を通る車の音やわずかな振動、うるせえ学校帰りのガキの声、開けた窓から入る風でカーテンが揺れる様、代り映えしない白い壁紙の天井、そういうのに意識をもっていこう。頭も体も動かさないからご飯もいらないや水だけ飲んどこ、でも何にもしないのにお腹すくなあっていうか退屈。なにもする気になれないのにいざ何もしないと退屈っておもうのかアタクシは、ははは、って、ちょっとかなしくもなります。

そんな日、あーしもいっちょフェイス・ブク代のスイーツ仲間になっちゃいましょ〜かね!てな感じで本屋に足を運び、漫画や小説を五千円分くらい買って地元の駅前の雰囲気のいい喫茶店に入った。結局その日は買ったうちの宮崎夏次系『ホーリータウン』一冊のみ読んで、地元喫茶店(地元と言えど自分が住んでいる場所は駅から車で三十分なので地元というには微妙)の「地元民、顔見知り以外お断り!」みたいな、言葉では言ってこないけど漂ってくるいや〜な雰囲気にあてられて、いそいそ退散。後日、中村うさぎ『私という病』を持ち込んでアイスコーヒー、あーしも一人前にフェイス・ブク代と肩を並べましたよ!

 

 

さて、本題なのですが中村うさぎさん著作の『私という病』、とっても興味深い内容で時間も忘れ、ぐんぐん読み進めていたら読み終わる頃には喫茶店に入って3時間アイスコーヒーだけで居座る、という事態になっておりました。本書は「なぜ女であることをおおらかに正々堂々と楽しめないのか」という著者の疑問を熟女ヘルスで勤務するという突飛な(?)実体験主義に基づいて掘り下げたものです。わたしは、本屋で文庫の棚の前を適当に歩いているとドカーン!とタイトルが目に入ったので手に取り、背表紙の文言を読んでおもしろそう!買っちゃお!と軽い気持ちで購入しました。

 

本書のまえがきに著者が「デリヘルで働こうと思いたったきっかけは「私だって女として認められた〜い!」ということ」と書かれているのだから、なんて素直な人なんだろうと思い、すっかりその一言でわたしはファンになりました。こんなに素直な人、なかなかいないと思います。本書を読むにつれ、自分がTwitterでネタにしてしまう「女を謳歌している女」への苛立ちや男性嫌悪の根源がわかった気がした。自分の中に巣食う「女っぽく可愛らしいことを素直にアタクシがするもんかバカタレがキャラに合わん」という気持ちと、「やっぱり女らしく可愛くいたいし男から必要とされたい愛されたい」という気持ち、この相反した二つの感情をズバリ言い当てられて、読んでいて非常につらかったし、わかってくれる人がいた!と救われた気がしました。

 

わたしは保育園の頃三浦くんという学級一スケベでおませな男の子に目をつけられ、スカートをめくられたり無理やりチューされたりトイレを覗かれたりお昼寝の時間に勝手に布団に入ってきて嫌がるわたしの局部を触ってきたりした。当然ながら子どもだったので、それらがどんな意味を持った行為なのか三浦くんはわかっていなかったのだと思う。まわりの友達もま〜たやってるわwみたいな雰囲気だった。保育園のお昼寝の時間は毎日恐怖だった。寝たら終わりだ!と子どもながらに思い、卒園するまで本当に一度もその時間に寝た記憶が無い。

小学校にあがり胸が膨らみ始めた頃、同級生の女の子のおうちに泊まりにいくとその子の兄が眠っているわたしの体を触りまくり、そのうちだんだんエスカレートしベロチューしていた。最初のうちは夢なのかと思っていたが、さすがに3回も4回もされればこれは確信を持ってやっているに違いないと思い、その子の家に泊まりにいくのを拒むようになった。友達は私に嫌われたと思ったらしく、私はその日を境に無視されるようになった。「あんたのおにいちゃんあたしが寝てる間にチューしてくるんだけど!」なんて言ったらどうなるかくらい、小学生の無知な私でもわかった。

中学校では近所のエロガキ同級生にすれ違い様に突然乳を揉まれたり尻を掴まれたり、一人で家に向かって歩いていると露出狂に遭遇したり。高校では柔道部の知らない先輩にストーカーのち強姦未遂(?)され、げんなり。電車に乗れば毎回痴漢に遭う。大学生になって自分なりのおしゃれをして毎日通勤ラッシュの電車に乗るようになると、多い日で5本の手がわたしのあらゆる所を触る。すし詰め状態だから避けられないし急行に乗っているからどうしようもない。心を無にして電車に乗った。

と、まあ他人からしたらどうでもいい小さなことかもしれないけど、私にとっては大問題であり全ての事が超超超〜〜〜〜〜〜いやだった。でも人に言うのは恥ずかしくて悔しくて、なにより自意識過剰な人間と思われたくなくて、当時から今の今まで親にも友達にも先生にも誰にも言えなかった。今思い出しただけでも泣きそうだ。

(男性からしたら大したことされて無いじゃん先っぽも入れてないくせにwてな感じかもしれないですが)こんなことがあってか、わたしは男性に嫌悪感を抱いています。でも、こんなことしてくるのは知り合った男性の中でもかなり少数派だし、男性の全員がこういったことをするという訳ではないと理解できてます。でも、そんなに親しくないのに不意にボディタッチなどされるともう恐ろしくて体が石みたいになるのですが、決まってそういう時の男性は「フンw自意識過剰女めwだっさw」という顔をしていますよ。わたしはその顔が大嫌いです。男性に怯える理由を男性から作られた、ということまで想像を巡らせられないのか。クソ男が。

まあだいたいこういうこと言っても、いやでもお前俺と仲良くしてんじゃんと言われるのが関の山。いや違うんだ、きみは私のことを友人として対等に接してくれるじゃん。それだから仲良くできるんだよ。たとえ性的な目で見てても、「性的強者」と「性的弱者」ではなく対等に人間として接してくれればそれでいい。いや、それがいいんですよ。

 

去年だか今年の2月くらいにやっていた『問題の多いレストラン』というドラマで真木よう子が「女は力じゃ男に勝てないから何されてもニコニコ笑って耐えるべき女のものは男のもの」という高畑充希に、「違う。あなたの髪も顔も胸も脚も心も全部誰のものでもない、あなたのだよ」と至極当然のことを言った。わたしはそれを聞いて、たしかに!と思って酷く感銘を受けたのを覚えている。当然の事なのに、すっかり忘れていた。

 

たとえば、パンツの見えそうなミニスカートを穿いている女の子を見て、ニヤニヤしたり鼻の下を伸ばしたりするのは、言うまでもなく男(オヤジ)である。彼らは「ミニスカートをどう思うか」と訊かれれば「いいねぇ。目の保養だよ」などと答えたりもするのであるが、そのくせ、自分の恋人や妻や娘が短いスカートを穿こうとすると、たちまち「やめなさい。そんな下品な格好」などと目くじらを立てて怒るのであった。

本当にこれに関しては腹が立ちます。わたしはこれを言われるのが本当に嫌。オメ〜のためのファッションじゃねえ。わたしはわたしが満足する為にファッションに興味をもち、おしゃれをするのだ。少女漫画でありがちな流れ、カレピと海に行ってビキニ姿になったとたん彼は素っ気ない態度。どうしたの?私なんかしちゃった?「・・・コレ着とけ」パーカーをぶっきらぼうに着せられる。ドキ……

バカタレ!おンめ〜〜何様じゃ!!!少女漫画大好きだけどこの流れだけは本当に嫌いです。

みなさん小さい頃を思い出してください。母親から、そんなに短いスカート!ちゃんと紺パン穿いたの?とか、ちょっと胸元あき過ぎじゃないの?とかいわれませんでしたか?それって、男が主張する「赤の他人だと嬉しいけど、身内が性的鑑賞物になるのは耐えられない」ということを女が受け入れた結果だと思いませんか。小さい頃から刷り込まれたその意識は、大人になって大勢の男から性の対象になった時、「おまえのせいだ」と言われても、ああそうかもしれない、と納得してしまう第一の理由だと思う。ボケナス。そんなの、私のせいじゃないもん。

 

ミニスカートやタンクトップを着る女は「男を誘惑している」と、彼らは捉えているのだ。(中略)そもそも男という生き物は、「性的なものを連想させる女は、誘惑者なのだから、そういう女には何をしてもいい」と思っているフシがある。

大学生になりたての頃、本当に毎日毎日痴漢に遭うので当時交際していた人に相談したら防犯ブザーをもたされた。的外れにも程がある。実際に無意味だったが彼に言うと悲しむと思ったので、痴漢に合わなくなって嬉しい!と喜んだフリをしたもんだ。防犯ブザーなどいくら持っていても意味が無いと思った私は、それまで着ていたお気に入りのワンピースやハイヒールをしまい、父親のだぼだぼのスウェットにデニムとスニーカーで電車に乗った。不思議とその日は痴漢に遭わなかった。不思議とというか当然である。腰まであった黒い髪も顎下で切りそろえて茶髪にした。それ以降、痴漢には滅多に遭わなくなった。そのとき痛いほど思い知った。

体のラインが出るタートルネックのニットも、胸元が広めに開いたTシャツも短めのスカートも、黒いストッキングも、OLみたいな格好も、手入れされた長い髪も、バッチリ化粧した顔も、全部男から見れば自分を誘惑するアイテムにすぎなかったということなのだ。私が私のために身につけているものが、男を誘惑する為のものだったというのか。虚しい限りである。

 

本書では「源氏名というコスプレ」ということについて書かれている。Twitterを本名とは別の名前でやっているみなさんなら想像しやすいと思う。著者は叶恭子という源氏名でデリヘルをやっていた。彼女もまた男性に対し嫌悪感をもっている。デリヘルになったからには見ず知らずの男性の性のお相手となるのだが、男性に対する生理的嫌悪は源氏名の時は不思議と克服していた。中村うさぎでもなく中村典子でもなく「叶恭子」という名前で呼ばれ仕事をする自分は、何の躊躇いもなくむしろ彼氏にしていた時よりも丁寧に性の相手をした、と綴っている。

Twitterで「枢木なの」と名前を偽って自撮りを毎日のように投稿し、普段絶対に口にしないような辛辣な言葉や下ネタや汚い言葉遣いもしてみせる。本名の自分、素顔の自分を何一つ知られていない場所では、忌み嫌っていたはずの下半身でしか物事を考えられない男性から嘘でも「かわいい」「好き」などと言われるのが素直に嬉しかった。わたしがTwitterに入れ込んだ最初の理由はこれである。男性から持て囃される経験など皆無のわたしにはそれだけで十分女として認められた気がした。しかし、一度得た快感は二度は得られない。もっとかわいいって言われたいもっと認められたい。そんな気持ちから自撮りの投稿数は上がり、過激な自撮りを投稿したりした。

嬉しいと同時に激しい自己嫌悪。男にかわいいと言われて簡単に舞い上がるなよバカ女!、でも私のことを対等に一人の人間として思ってくれてるのかもしれないよ、そんなわけない相手は見えないんだぞ見えない相手の何がわかる!、見えなくても言葉は残ってる、文字なんかいくらでも偽れるんだよボケ!こんなことがずっと頭を支配してアカウント消す最後の方はタイムラインを見るたび吐いてた気がする。

 

 ↑ バカにしてる感じしますけど、これは本気です。わたしだってこういう手放しに女であることを楽しんで生きている女になりたい。ザ・オンナになりたい。腐っても雌ガール。

 

本書では東電OL事件にも触れています。改めて調べてみたのですが、本当に切ない事件ですね。自分の女としての価値を、街娼としてお金をもらいセックスを「させてあげる」ことで確認していた彼女。wikipedia読みながら思わず泣きそうになった。これは紛れもなく自分が女としての価値に渇望した末の将来、だと思いましたね。みなさんはどうでしょうか。こんな売春なんかして自分の価値を確認だなんてバカな真似、自分はしないと思いますか?

 

ほかにもいろいろ言いたいことはあるけど、まずは手に取って読んで、話はそれからにしましょう!女性と共感して苦しみや、やるせなさを分かち合いたいし、男性と殴り合いの意見交換もしたいです。

私という病 (新潮文庫)

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